
『農政研究―日本の丁抹号』
なぜ安城が日本デンマークと呼ばれたのでしょう?
大正時代の恐慌大正9年(1920)では、農産物価格が暴落するなど農村の衰弱が大きな社会問題となり、いかにして農村振興を図るのかが地域の指導者の課題となっていました。こうした中で『国民高等学校と農村文明』などの書物でデンマークの農業・社会・文化・教育等の実情がさかんに紹介されました。
こうした背景には、デンマークが戦争に破れて荒廃した国土を、小国ながら短期間のうちに豊かな農業国家へと立ち直らせたことが、当時の日本が置かれた状況を打開するための大きな指針になったと考えられます。つまり、デンマークは当時の埋想の国、模範とすべき国であったわけです。
デンマークの主な生産品はそれぞれ組合において加工、規格の統一が図られ、欧州中に輸出。こうした組合組織が発達していたことがデンマーク農業の大きな特色でした。
また、当時のデンマークの教育制度は非常に高度な水準にあり、農民は欧州において最も教養が高いと言われていました。教育に大きく寄与したのは国民高等学校です。国民高等学校は、哲学者であり教育家であったグルンドウィッヒの創意によって設立された私立学校で、またたく間に全国に普及していきました。
このグルンドウィッヒに例えられたのが安城農林高校の初代校長として赴任した山崎延吉です。山崎は学校を開放し、農民を対象に様々な講習会を開きました。そして米のほかにも麦、野菜、養鶏などの多角型経営を勧めたり、組合をつくって出荷や購入を共同で行ったり、資金を融通し合ったりすることを勧めました。
山崎延吉は校長だけでなく、県の役人、農業試験場所長、農事講習所所長も兼ね、愛知県の農政の中心人物になりました。後に貴族院議員にも任命されています。

昭和26年(1951)の風景(明治用水管内)。祭りと思われるが、日本デンマーク時代のにぎわいを感じさせる。
山崎は全国を行脚(講演は6,000回以上)し、安城の農業を紹介しました。昭和の初期には「愛知県碧海郡の安城は、日本デンマークとして余りにも有名である。ここは一つの名所旧蹟のようになっていて、日本人であれ外国人であれ、偉いと偉くないとを問わず、一度は必ず行って見るところになっている。」(『窮乏の農村』)と言われるようになっていきました。
現在のデンマークは「幸せな国ランキング」として2つの機関から世界一に選ばれています。
http://freefairy.blog84.fc2.com/blog-entry-598.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/
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また、碧海台地が「日本デンマーク」と呼ばれるようになりたいものですね。