水はあらゆる生命、産業の源。西三河が農業・漁業・工業などの領域で著しい発展をとげたのは矢作川のおかげであると言っても過言ではありません。その矢作川が有史以来の大ピンチに見舞われました。
頃は1960年代。日本が高度経済成長をひた走っていた時代の話です。まずはセメント用山砂利や陶土などの採取業者が採取した土砂を川で洗い、矢作川を汚しました。
続いて自動車関連の工場が次々にこの地に進出、薬品で汚れた工場廃水を川にたれ流し始めました。さらに上流山間部の乱開発。宅地やゴルフ場の造成工事で山林を伐採、大雨のたびに大量の土砂が流出して、矢作川は黄色いヘドロの川と化してしまいました。
ノリやアサリの養殖は大打撃、明治用水の水も悪化し稲の被害も続出。業者や役所に抗議を続けたものの、工業優先の思想の中で事態はなかなか好転しません。
この公害闘争のために作った連合組織が矢作川沿岸水質保全対策協議会、略して矢水協です。
昭和44年(1969)、矢水協の代表が経済企画庁へ陳情に行ったときには、陳情書には目もくれず「日本を担う企業を潰すつもりですか」と言われました。これ以来、矢作川の水は自分達の手で守るしかないと強く決意、矢水協独自の過酷な闘いが始まりました。
メンバーは昼夜を問わず監視活動を続け、たれ流し工場に乗り込んで抗議。また地道に汚濁の実態調査のデータを積み上げました。
そして昭和47年(1972)、悪質な山砂利採取3業者を水質汚濁防止法違反で告発(全国初)。矢水協の活動は全国に名を馳せ、大きな社会的波紋を広げました。
そしてこの運動が広く認められ、流域での開発行為については事前にこの協議会の同意を得るルールが定着。このルールは「矢作川方式」と呼ばれ、民間主導による流域管理方式のひとつとして全国的に高い評価を得ている。平成10年度には第1回「日本水大賞」にてグランプリを受賞しています。