Lesson3 3時限目 碧海大地のバイオスフィアを造った明治用水

豊田市安永あんえい川、岡崎おかざき鹿乗かのり川等の支川で家屋の浸水しんすい破堤はていによる被害ひがいが発生(東海豪雨ごうう 2000年9月)
出所:国土交通省 中部地方整備局 豊橋河川事務所

正解 A 水路を伝って洪水こうずいしよせるから
この都築弥厚つづきやこうが計画した水路はいくつかのはんの領地をまたいでいました。はんをまたいで開発した新田は幕府領になるという決まりがあったので、この計画に各領主は反対します。
一方、この台地は近隣きんりんの農民にとってはまきや肥料を入手できる共有地だったので、それを失うことになる農民も反対します。
しかし、反対する理由として最も大きかったのは、この水路を伝って洪水こうずいしよせてくるというおそれでした。当時の矢作やはぎ川周辺の低地ではいつも水害になやまされていました。水を引くためには地面に大きなみぞるので大雨の時には矢作やはぎ川が氾濫はんらんし、この水路を伝って洪水こうずいしよせる危険性があります。当時は堤防ていぼうや取水口の技術も未熟なものでしたから、この心配は当然のことでした。特に油ヶ淵あぶらがふち周辺の村は湿田しつでん(水はけの悪い田んぼ)になやまされていたので、とても認められる計画ではなかったのです。
こうした水路の開削かいさくにともなう地元の反対はどこの地域でもあります。歴史的に積み上げられてきた水利の秩序破壊はかいされてしまうためです。
都築弥厚つづきやこうや技術者の石川喜平きへいは、農民の妨害ぼうがいけるため、夜中に提灯を灯して測量を行なったそうです。

新しい水路を引くのは地元の説得が困難!

あなたの正解率

  • 1時限目

  • 2時限目

  • 3時限目

  • 4時限目

明治用水eラーニング|Meiji-Yousui e Learning

オモシロ知識箱

弥厚やこうキツネの唄

当時の碧海へきかい台地の農民は都築弥厚つづきやこうの計画にもう反対しました。そのときの歌い文句は弥厚やこうキツネにだまされて川はっても水はコンコン」(川をるとは水路を造ること)。
右の絵は、ある小学校の三年生が当時の安城ヶ原の話を先生から聞いて、想像していたものだそうです(天野暢保のぶやす著『安城ヶ原の歴史』より)。
木にぶら下がっているのはお弁当。当時の農民は本村(安城市西尾にしお東尾ひがしお)から通って開墾かいこんしていたので弁当を持って行きました。キツネたちにその弁当をられないよう木の枝にるしていたそうです。当時の安城ヶ原の様子をよくいています。
キツネが人をだますという昔話は各地にあります。農民のためにくしているのに、キツネなどとからかわれた都築弥厚つづきやこうはさぞかし無念だったでしょうね。
他にも、安城農民の過酷かこくな生活をうたった俗謡ぞくようがあります。

「あの子どこの子 安城の子 家のとうさ(父)の顔知らぬ」。
当時は「はねつるベ」で井戸いどから水をみ、田んぼに入れていました。バケツで田んぼの水を満たすのですから、1反(約31m四方)の田んぼに3cmの水を入れるとして、10リットルのバケツで300ぱい必要です。伊勢いせの農民の記録では、「ハネツルベは夜中の2時から朝の8時までの6時間と、午後の2時から8時までの6時間を灌水かんすい作業にあてるのが普通ふつうとされていた(灌水かんすいとは田んぼに水を入れること)」(『宮川用水史』より)。この作業が12時間、普通ふつうの農作業が6時間、計18時間の重労働です。安城の農民も同じような状況じょうきょうだったのでしょう。
夜が明ける前から田んぼに出て帰宅するのは夜ですから、安城の子どもは父親の顔もよく知らないまま育ったといううたです。

よめにやるなら安城にやるな 年がら年中 野良仕事」。
これも同じような意味ですね。
安城は確かに一本の水路によって劇的に発展しました。しかし、その飛躍ひやくの要因は水路だけではないでしょう。こうした過酷かこくな重労働にもえた安城農民の人一倍の働きぶりが、後に「日本デンマーク」とうたわれるほどの繁栄はんえいをもたらしたのではないでしょうか。

一度リセットすると、
回答データが全て消えてしまいます。
リセットしますか?