当時の碧海台地の農民は都築弥厚の計画に猛反対しました。そのときの歌い文句は「弥厚キツネにだまされて川は掘っても水はコンコン」(川を掘るとは水路を造ること)。
右の絵は、ある小学校の三年生が当時の安城ヶ原の話を先生から聞いて、想像して描いたものだそうです(天野暢保著『安城ヶ原の歴史』より)。
木にぶら下がっているのはお弁当。当時の農民は本村(安城市西尾や東尾)から通って開墾していたので弁当を持って行きました。キツネたちにその弁当を盗られないよう木の枝に吊るしていたそうです。当時の安城ヶ原の様子をよく描いています。
キツネが人をだますという昔話は各地にあります。農民のために尽くしているのに、キツネなどとからかわれた都築弥厚はさぞかし無念だったでしょうね。
他にも、安城農民の過酷な生活をうたった俗謡があります。

「あの子どこの子 安城の子 家のとうさ(父)の顔知らぬ」。
当時は「はねつるベ」で井戸から水を汲み、田んぼに入れていました。バケツで田んぼの水を満たすのですから、1反(約31m四方)の田んぼに3cmの水を入れるとして、10リットルのバケツで300杯必要です。伊勢の農民の記録では、「ハネツルベは夜中の2時から朝の8時までの6時間と、午後の2時から8時までの6時間を灌水作業にあてるのが普通とされていた(灌水とは田んぼに水を入れること)」(『宮川用水史』より)。この作業が12時間、普通の農作業が6時間、計18時間の重労働です。安城の農民も同じような状況だったのでしょう。
夜が明ける前から田んぼに出て帰宅するのは夜ですから、安城の子どもは父親の顔もよく知らないまま育ったという唄です。
「嫁にやるなら安城にやるな 年がら年中 野良仕事」。
これも同じような意味ですね。
安城は確かに一本の水路によって劇的に発展しました。しかし、その飛躍の要因は水路だけではないでしょう。こうした過酷な重労働にも耐えた安城農民の人一倍の働きぶりが、後に「日本デンマーク」と謳われるほどの繁栄をもたらしたのではないでしょうか。