
加賀百万石と謳われた金沢城
加賀100万石、尾張62万石などと称されるように江戸時代の大名は石高(米の生産量)でランク付けされていました。大名だけでなく、家臣の給料も300石、30俵2人扶持(本人と家来1人分)などと石高で決められていました(実際には石高分の現金を支給していた)。こうした経済体制は「米本位制」と呼ばれています。
藩の石高は太閤検地や江戸初期の検地を元に決定され、基本的には変わることなく明治6年(1873)の地租改正に至るまで続きました。
もっともこの石高は「表高」とも言って大名の「家格」や「軍役(幕府に出す兵力や兵糧など)」の基準値であり、実際の米の収量(内高)とは一致しませんでした。特に江戸時代には各地で新田開発が盛んになり、江戸初期から中期にかけて日本の水田面積は戦国時代の頃の二倍近くにまで増えています。
100万石の加賀藩(前田家)は実際には134万石、62万石の尾張藩(尾張徳川家)は88万石であったとも言われています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98)。
1石(米150kg)とは、昔の日本人が1年間に食べる米の量とされていました(現在の米の消費量は年間60kg程度)。そして、米1石の収穫があげられる田の面積を1反(約10a=10m×10m)としていました。
現在は、1反あたり8俵(8×60kg=480kg)前後とれますので、水田の生産量は約3倍まで上がったことになります。したがって、現在の収穫高に直すと加賀藩は300万石、尾張藩は260万石という計算になります。
安城市の水田面積は3,150ha(H23)ですから、1反あたり8.7俵(実際の収穫量)として計算すると約11万石となります(実際には生産調整で6割程度しか作っていないため9,830トンの収穫量=6万5,000石程度)。