Lesson3 3時限目 碧海大地のバイオスフィアを造った明治用水

五万石の岡崎おかざき

正解 C 岡崎藩おかざきはんと同じ5万石
都築弥厚つづきやこうの計画では、この水路を引くことによってできる新しい田んぼは4,200ha、約5万石の収穫しゅうかく高と計算しています。
幕末当時の三河の主なはん吉田よしだはん(豊橋)7万石、岡崎おかざきはん5万石、刈谷かりやはん2万3千石、挙母藩ころもはん(豊田)2万石ですから、キツネしか住まなかった荒地あれちが、たった一本の水路で5万石という岡崎おかざきはんと同じ収穫しゅうかく高が得られる穀倉地帯へと変貌へんぼうすることになります。
都築弥厚つづきやこうの計画は失敗しますが、その夢は維新いしん後に明治用水となって実現します。明治用水によって碧海へきかい台地には8000ha以上の田んぼができたのです(明治40年(1907))。
石高に直せば実に10万石以上。江戸えど時代であれば、三河で一番大きなはんができたことになります。

水路一本で10万石の大名に!?

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加賀百万石とうたわれた金沢かなざわ

はんの石高

加賀100万石、尾張おわり62万石などとしょうされるように江戸えど時代の大名は石高(米の生産量)でランク付けされていました。大名だけでなく、家臣の給料も300石、30俵2人扶持ふち(本人と家来1人分)などと石高で決められていました(実際には石高分の現金を支給していた)。こうした経済体制は「米本位制」と呼ばれています。
はんの石高は太閤たいこう検地や江戸えど初期の検地を元に決定され、基本的には変わることなく明治6年(1873)の地租ちそ改正に至るまで続きました。
もっともこの石高は「表高」とも言って大名の「家格」や「軍役(幕府に出す兵力や兵糧ひょうろうなど)」の基準値であり、実際の米の収量(内高)とは一致いっちしませんでした。特に江戸えど時代には各地で新田開発が盛んになり、江戸えど初期から中期にかけて日本の水田面積は戦国時代のころの二倍近くにまで増えています。
100万石の加賀はん(前田家)は実際には134万石、62万石の尾張藩おわりはん尾張おわり徳川家)は88万石であったとも言われています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98)。
1石(米150kg)とは、昔の日本人が1年間に食べる米の量とされていました(現在の米の消費量は年間60kg程度)。そして、米1石の収穫しゅうかくがあげられる田の面積を1反(約10a=10m×10m)としていました。
現在は、1反あたり8俵(8×60kg=480kg)前後とれますので、水田の生産量は約3倍まで上がったことになります。したがって、現在の収穫しゅうかく高に直すと加賀はんは300万石、尾張藩おわりはんは260万石という計算になります。
安城市の水田面積は3,150ha(H23)ですから、1反あたり8.7俵(実際の収穫しゅうかく量)として計算すると約11万石となります(実際には生産調整で6割程度しか作っていないため9,830トンの収穫しゅうかく量=6万5,000石程度)。

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