Lesson3 3時限目 碧海大地のバイオスフィアを造った明治用水

1haをす大きなため池は84ヶ所。小さなため池は無数にあった。

正解 A 水(川)がなかった
安城は碧海へきかい台地と呼ばれる台地(隆起りゅうきした平たい丘上きゅうじょう)にあり、田んぼの水が引けるような大きな川がなかったのです。台地上ではため池や小川から水を引いている小さな水田集落はいくつかあったものの、はんができるほどの米の収穫しゅうかく高は望めませんでした。
このように、広大な平野を持ちながら人が住めなかった土地はいくらでもあります。栃木とちぎ県の那須野ヶ原なすのがはらは4万ha(大阪おおさか市の2倍弱)の面積がありながら、明治時代になるまで無人の荒野こうやでした。福島県郡山市も人口30万人をす大都市ですが、明治時代に安積疏水あさかそすいが引かれるまでは7千人程度の宿場町に過ぎなかったのです。
いずれも台地であり、川がなかったためです。
江戸えど時代まではお米が税金(年貢ねんぐ)でありはんの財政の基本でした。したがって、川が流れてこない台地はいくら広くても水田ができないため、はん(城下町)はできなかったのです。江戸えど時代までの安城は、幕府領、岡崎おかざき領、刈谷かりや領、旗本領など他藩たはんの領地が入り乱れていました。田んぼの造れない場所は入会地(たき木や草などの肥料を採る場所)となっていたのです。
つまり、碧海へきかい台地には土もあり、植動物も多くいましたが、水が足りなかったため田んぼが少なく、あまり良いバイオスフィアではなかったことになります。

碧海へきかい台地がバイオスフィアであるためには水が足りなかった!

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明治用水eラーニング|Meiji-Yousui e Learning

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安城が福島領!?

右図は、明治維新いしん(1868年)直後から廃藩置県はいはんちけん(1971年)までの期間における安城市域の領主を示した地図です。この時期は江戸えど時代の旧藩主はんしゅがそのまま県に移行していたので、江戸えど時代の領主がだれであったかが分かります。
ただし、右図における静岡しずおか藩とは明治維新いしんで朝敵となった徳川本家にあたえられた静岡しずおか(駿府すんぷ)はん70万石の領地の一部です。したがって、図の黄色いエリアは、江戸えど時代までは幕府領や旗本領でした。
現在の安城市のうち、西側の区域(図のピンク色のエリア)は江戸えど末期の約80年間、東北の福島はん飛地とびちはなれた領地)でした。
この区域は、元々は刈谷かりやはんの領地でしたが、寛政かんせい2年(1790)*、刈谷かりやはん内で百姓一揆ひゃくしょういっき寛政一揆かんせいいっき)が発生。幕府より処罰しょばつを受けて、2万3,000石のうち1万3,000石が福島はんの領地となったためです。
以来、福島はん刈谷かりや重原しげはら役所(重原しげはらはん)を置いてこの地を治めました。ところが、明治維新いしんの際に福島はんは新政府に反抗はんこうしたため、本拠ほんきょにしていた福島の領地は没収ぼっしゅうされ、この重原しげはらに国えを命じられて廃藩置県はいはんちけん(1871年)に至っています。

*『安城市史』では寛政かんせい4年(1792)となっている。

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